愛された記憶と共に生きる
久々のブログです。
私はカウンセリングにおいて「愛着の支援」をベースにしています。
人の生きる力、乗り越える力を支えるのは「愛着」だと信じているからです。
そもそも「愛着」とは何か?
一言で表すなら「絆」のようなものです。
もっと詳しくお話すると、子どもが親に対して「この人は自分を理解して、苦しみを取ってくれる」という安心感と
「この人と居ればもっと嬉しくなるし活力が沸いてくる」という勇気をもてること。
その、親と子を繋ぐものが「愛着」という見えない繋がりなのです。
苦しい時に助けてくれた、寄り添ってくれた、励ましてくれた。
嬉しいことがあったときは自分のことのように喜んでくれた。
嬉しくて泣いている時に、一緒に泣いてくれた。
悲しくて、悔しくて泣いていたときにただ抱きしめてくれた。
自分が間違ったことをした時には心から叱ってくれた。
道に迷ったときに、一生懸命、一緒に考えてくれた。
これは「愛された記憶」そのものです。
愛着とは、愛された記憶そのものだと思うのです。
愛されたという記憶がなければ、人は「もっと先まで歩こう」という勇気が湧かず
目的を見失ってしまうことがあります。
愛された記憶は、親だけではなく、友人、教師、恋人、カウンセラーだれからでももらうことが出来ます。
つまり、「親から愛された」という記憶がなかったとしても、何歳からでもその記憶は作っていけるということです。
私の所に訪れる方の人生は、想像を絶するような暴力や暴言、否定の中で育った人もいます。
潰されて、潰されて、何度咲こうとしてももぎ取られてきた人がいます。
「愛された記憶」がないどころか「心を何度も殺された」記憶で支配されている人がいます。
それでもなんとか必死に生きて、私のところにたどり着いたということは
「生きたい」「愛されたい」という望みをまだ持っているということなんです。
いくら「死にたい」と口にしても、「自分はクズだ」「生きる価値なんかない」と嘆こうとも
心の奥底では願っているんです。
「誰か一人でもいいから、生きていていいって言ってほしい」と。
私がカウンセリングをする理由は、温かさも愛された記憶もない故に迷っている方に
「ちゃんと、愛される価値があるから怖がらなくて大丈夫だよ」と伝えたいからです。
それが私に出来ることである以上に、愛を伝えることが私の望みだからです。
私がそれを心から望めるようになったのも、人からの温かさや愛情で満たされ、壊れた器を癒してくれたから。
私自身に「愛された記憶」が築かれていったからです。
愛された記憶があると、人はこんなに頑張れるんだ。
人って弱いけど、強いんだ。
その記憶を支えとして、人は生きていけるんだ。と知ったからです。
私の心を満たしてくれた温かさをくれたのは子ども達、友人、恩師、お客様です。
本来は、カウンセリングを受けるお客様のことを「お客様」でも「クライエント」でもなく
「〇〇さん」「〇〇ちゃん」という個人のお名前で呼びたいし、お客様やクライエントという言葉でひとくくりにしたくないという想いがあります。
不本意ながら「お客様」とか「クライエント」という言葉をブログでは使っていますが
ぴったりしっくりくる他の名前はないかな、と模索中です。
私がそれくらい「個人」を見ること、知ろうとすることを大切にしているのは
「愛された記憶」は、特別な記憶だから。
私が「お客様の一人」として向き合ったのでは、絶対にその特別な記憶の中に
私は加わることが出来ないと思っているからです。
人生とは、「記憶」の連続です。
長い人生を生き抜いていくには「愛された記憶」が必要です。
「人にやさしくできないな」
「自分を愛することなんて出来ない」
そのように悩んでおられる方は、そうせざるを得ない背景があるはずです。
何かを変えたい
そう願った時に扉は開いていきます。
「今さら遅い」なんて思わずに、願ったタイミングで
気軽にご相談ください。